合歓の郷はヤマハリゾートだと思っていたのですが・・・今はNEMUリゾートとなっていますね。

親元を離れてフタミ先生と一緒に3泊4日の旅。近鉄電車の2階建て車両に乗ったんですよね。
フタミ先生のクラスの他、他のセンターからも来ていたのでしょうか、何グループにも分かれてレクリエーションが行われました。朝のラジオ体操から始まりプールやグランドゴルフのようなものから、グループごとにアンサンブルをして最後にその成果を発表なんてこともありました。
その時何を演奏したか全く記憶にございませんが、写真には真っ黒に日焼けした私が笑顔で写っていますから楽しかったのでしょう。
そう言えばアンサンブルで一緒になった子が、高校の同じクラスにいました。どこかで見たことがある人だなと思ったのはお互い様で、合歓の郷で一緒だった?・・・となりましたが、残念ながら今はお付き合いはありません。

ヤマハでの経験はまだあります。
作曲コンテストがあり、私たちの時代では西村由紀恵さんが有名でしたね。

グループレッスンではモチーフが与えられそこから曲を膨らませたり、変奏などをする練習があり、それはグレード試験に繋がります。
私は妄想するのは得意ですが、それを音に乗せリズムを繋ぐセンスがなく、以前も書きましたが、母に店大会で入賞したらエレクトーンを買ってあげるというのを餌にされても全くその気配はありませんでした。

人ぞれぞれ作曲のテーマ作りは違うのでしょうが、私の場合実体験であったり、本を読んだりしてイメージを膨らませていきました。
それが「自転車」「夢のバレエリーナ」などでした。お世辞にも上手とは言えないこれらの曲の失敗は左手が完全に伴奏になっていたことです。しかもブンチャッチャやタラリラタラリラというありふれた伴奏形に単純なコード進行でしか左手を付けられない私には、モーツァルトの片鱗を垣間見ることなど微塵もありませんでした。しかし、この作曲経験は大学に入ってからの授業に大いに役に立ったのです。

これらの作曲したものは楽譜として今も大事に保管しているほか、レコードとして残っています。簡単に録音できる時代でもなかったので、親がレコードにしてくれていたのですね。

私の死後、遺作として発表されるなんてことは万に一つもありませんが、親には感謝ですね。作曲ノートと称して何冊もありますよ。

今日はこの辺で・・・つづく