中学校には自転車で通学していました。
坂道を下って途中の竹ちゃんを誘って15分くらいでしょうか、自転車通学していました。

田舎によくある、ヘルメット姿に、学生鞄を後ろの荷台に括り付けていくスタイルです。あのヘルメットがどれほど嫌だったことか、被るには被るけど、顎紐を緩くしか締めていないという、意味をなさないヘルメットの被り方でした。セーラー服にプリーツスカートで、セーラー服の線が何本だとか線が井の字になっていて田んぼマークだとか、ほのぼのした中学校時代でしたね。

夏休みは学校の屋上で吹奏楽部の練習があり、時にはユーホニアムを自転車の荷台に括り付け持って帰ったこともあります。しかしそんな楽器を家で練習できるほどの家であるはずがありません。帰りは坂道を上らなくてはいけないのに、それだけで修業でしたね。親友はフルートなのに家が学校の直ぐ傍でどれほど羨ましかったことでしょう。

当時私たちの学年には中学校受験をした人がおらず、同級生全員で入学しました。4校の小学校が集まった中学校は5クラスあり、1クラス40人前後だったように思います。そこから半分以上が地元にある高校に進学します。塾に通っている子なんて殆どおらず高校受験の少し前に通う程度の中、小学校から塾にやピアノに電車で通うなんて子はいなかったですね。部活も週に何日かは休まねばならず、放課後も殆ど友だちと遊んだことがありませんでしたから、当然のように地元の高校には行かないものだと思っていました。

その頃地元の高校が女子校から共学になって3年目を迎える時期であり、先生たちはできるだけ地元の高校に進学するよう指導していました。私の頃はそうでもなかったのですが、3つ下の弟の頃は願書提出の前日まで先生が家に来て説得していたという噂もあったほどです。公立なのでできるだけ優秀な生徒を送り込んでレベルアップを図りたかったのでしょう。実際に叔父がその高校の校長を務めることになった頃は女子校の名残はあるものの優秀な生徒も多かったようです。
私は塾に通う電車の時間帯に、丁度通学帰りの生徒と同じになることが多く、絶対にこの高校には行かないと決めていました。なので最初から私学一本でした。私学に関しては先生も何も言わなかったです。


その私学はカトリックの学校で当時校舎の天辺にマリア像がそびえ立ち、夜にはライトアップされ神々しいほどでした。ピアノのレッスンの帰り、父の車でその前を通るのが好きで、覚えているのはある日のミカン狩りの帰りにわざわざその前を通ってくれるよう頼み、横にある教会に連れて行って欲しいとせがんだことです。その時のミサの光景は今でも脳裏に焼き付いています。初めて見る、ベールを被り祈りを捧げる敬虔なカトリック信者の厳かな後ろ姿。ステンドグラスにライトが当たり、なんとも言えない光の屈折を作っていた教会の佇まい。あの時はっきりこの高校に行くと心に決めたのです。

今日はこの辺で・・・つづく